元禄十五年十二月、四十七士が本懐をとげると、世はあげて賞讃の声を惜しまなかった。時の幕府は将軍綱吉を中心として、義士の処遇について苦慮した。儒学者荻生徂徠は、世論が賞讃と同情をもりあげ、助命の処置へ向って沸騰して行くのを承知の上で、敢えて義士に対する処置は「切腹」であるべき事を主張した。それは情においてではなく、法の名においてであった。かつて徂徠がおからを喰って勉学に励んでいた苦学時代、その長屋に隣り合せていた踊りの師匠おかつは、徂徠を尊敬するあまり、身の廻りの世話まで見た間柄で、徂徠もまた、おかつの芸に高い評価を惜しまなかった仲であった。しかし徂徠が将軍膝下にあって義士処遇の事を議する現在となっては、その立場が逆転した。つまり、おかつの弟間新六は、徂徠によって死に当面することになるのだ。義士の一人、中村勘助の恋人であるおしまも、おかつ同様徂徠に対して恨みを抱く立場であった。否、当時の人心の大半が徂徠の主張に対して憤りと怨みを抱き、怨嗟の声をあげたのである。しかし、幕府は江戸城内大評定のすえ最後の決定をゆだねた徂徠の主張をいれ義士全員に切腹の断をくだした。討入りからニヵ月後、元禄十六年二月四日--。江戸市民あげての惜別の声をよそに大石内蔵助以下四十六名の義士は従容として死におもむき、武士道に殉じた。四十六本の白木の立ならぶ泉岳寺の墓前に勘助の菩提を弔うため丈なす黒髪を切って尼となったおしま、弟新六の最後の手紙で徂徠の処置が武士として最も美しい最後であることを悟ったおかつ、そして徂徠の三人が期せずして立合い、深い思いをこめて香華の煙をたくのだった。
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