昭和十八年春、日本海軍は米軍物量作戦の前に苦戦をしていた。そんな折、土浦海軍航空隊では、七つボタンに身を固めた健気な新入隊員が、厳しい日夜の規律と訓練に入っていた。和久一郎庄司、藤井、秋山、村田、並木は十一分隊一班に配属され、早速宮本上曹の精神注入捧の雨を浴び、全員ちぢみ上ってしまった。数日後、歴戦の勇士桂大尉が十一分隊に着任。体育に学業に、さらに厳しい練磨の日が続いた。そんな中で、最初の落伍者が出た。小心な並木が自らの命を絶ったのだ。折しも戦局は緊迫の度を加え、幕僚の松本少佐から訓練のすべてを短縮するとの命令が出された。隊員が指折り教える外出許可の日が来た。ところが、和久の許に届いた学友川崎素子の手紙が宮本に見つかり、総員外出禁止。和久は皆から責められたが、児玉分隊士の行なった高度な通信テストを、キャッチし再び外出許可が出た。しかし、藤井が姉の美恵子に、庄司が母菊江に再会している時、和久は兵舎に残され、出征の日を一人寂しく回想していた。そんな和久が鉄条網越しに弟妹たちと再会できたのは桂の温情からだった。やがて、一班から秋山が脱落し、隊員から尊敬されている桂大尉は南方の戦線へ発った。明けて十九年。ますます戦況は悪化。出陣を前に最後の休暇が訪れた。藤井は姉の美恵子と奈良薬師寺にいこい、和久家では素子と共に和久と庄司を迎え和気藹々の団らん。夜が明けると、零戦十五機が編隊を組んで、桂の待つフィリピンに向って飛びたった。桂の援護銃撃に守られて和久らは、無事初陣突破に成功した。やがて基地上空を飛行中の藤井がP38に急襲された。美恵子に遺骨を届けたのは桂だった。そして藤井の最後の手紙には、桂大尉が美恵子の結婚相手として理想的だと、書かれていた。一方和久は、肉親のすべてを失ったが悲嘆に暮れる間もなく、庄司、村田の三人と九州鹿屋基地に転属された。侍攻出撃の日が遂に来た。爆音を轟かせて目標の沖縄北方に向う桂の手には、美恵子から送られた月光菩薩像が握られていた。南へ去る十六機。それを追うかのように、海辺を駈ける美恵子と素子の姿があった。
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