大正の中期、オイチニの薬屋樋口は美しい妻ゆきと二人で貧しいながらも誠実な真心を失わず楽しく暮らしていた。土地の親分太田黒は土地会社の手先となり立ち退きを強制したが、樋口は地元民の先頭に起って反対したので憎まれた。子分の卯之吉は刺客を命ぜられ樋口を待ち伏せこれと格闘崖下に転落して互いに傷ついてしまった。一と月後に退院した卯之吉の左腕は失われていた。親分から見放され悄然たる卯之吉が歩いて来たところに樋口の家がポツンと残っていた。樋口は崖から転落した時の傷が原因で一ヶ月前に死んだ事をゆきから聞いた。樋口は卯之吉に襲われたことを一言も喋らずに死んでいたのである。前非を悔いた卯之吉は樋口の形見のオイチニの服を借り受け不自由な片手で手風琴を奏で一家の支柱を失ったゆきの生活を助けていた。ゆきはやがて樋口の子を産んだが、産後の日経ちが悪く嬰児の菊子を卯之吉に託してこの世を去った。菊子を背負った卯之吉の薬屋の姿が村から街へ現れた。しかし片腕しかない男に菊子を育てるのは困難だった。菊子が五つとなったがオイチニの薬屋には春が巡ってこなかった。ある日ふとしたことから拾った鞄の中から書類と手の切れるような十円紙幣が出て来た。持ち主に届けたが、社長が留守のため恐喝と間違えられ巡査に拘引されてしまった。冷たい留置場の中で卯之吉は泣き叫ぶ菊子の声を聞き保護室を覗いた時、優しく彼女を慰める女の顔が目に入った。それは卯之吉が秘かに想いを抱いた菊子の母ゆきにあまりにも似ていたのである。ようやく嫌疑が晴れて警察の門を出た卯之吉は、とあるカフェーの前で呼び止められた。中から出て来たのは留置場で逢ったゆきに似た女ですみと言った。しかし正体もなく酔ったすみの姿はかえって美しい夢を汚すように彼の心に暗い印象を与えるのである。人生に光明を失った卯之吉は菊子と死を決意したが、菊子の頑是ない姿に理性を取り戻した。それからの卯之吉の姿は明るかった。
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